INTRODUCTION
「普通って、何だろう。」
私たちは、無意識のうちに "普通" を基準にしながら生きています
でも、その「普通」から外れた瞬間、人は時に "違う人" として扱われます
差別は、特別な誰かだけがするものではありません
むしろ、人が集団を作る以上、とても自然に生まれてしまうものなのかもしれません
だからこそ、「自分には関係ない」で終わらせず、考え続ける必要があります
今回は、「差別」というテーマについて考えていきます
逆転スペクトル Chapter7
差別——「違う」は、なぜ怖くなるのか
(アンコンシャス・バイアス/無意識の偏見を考える)

ブルバ
「みんなと同じにできないとダメなの?」
代表
「・・・どうしてそう思ったの?」
ブルバ
「だって園や学校でも、社会でも、『みんなと同じ』が普通みたいだから」
代表
「そうだね」
ブルバ
「じゃあ、普通じゃない人はダメなの?」
代表
「うーん・・・」
「仲間」と「それ以外」
人間は集団を作る生き物です
家族
園や学校
会社
地域
国家
私たちは、何かの集団に所属しながら生きています
そして集団ができると、自然に「仲間」が生まれます
仲間が生まれること自体は悪いことではありません
助け合いも安心感も、多くは仲間意識から生まれます
しかし同時に、
「仲間ではない人」
も生まれます
ここに差別の種があります
普通という名のルール
私たちは「当たり前」があるから生活しやすくなります
信号を守る
順番に並ぶ
約束を守る
社会は、ある程度の共通ルールがあるから成り立っています
だから「当たり前」そのものが悪いわけではありません
問題は、その当たり前が "唯一の正解" になってしまうことです
差別は、多くの場合、
「嫌いだから」
だけで起こるわけではありません
むしろ、
「みんなこうしているのに」
「普通はそうするでしょう」
という感覚から生まれることがあります
普通に、挨拶する
普通に、会話する
普通に、働く
普通に、園や学校へ行く
その "普通" に合わせられる人は問題になりません
でも、合わせることが難しい人はどうでしょう
その瞬間、
「変わっている」
「困った人」
「努力不足」
という評価が始まります
本人の苦しさや背景よりも、「普通から外れている」という事実だけが見られてしまうことがあります
差別は「悪意」だけでは説明できない
差別という言葉を聞くと、多くの人は強い悪意を想像します
もちろん、明確な悪意による差別も存在します
しかし実際には、
知らない
理解できない
関わったことがない
そうした状態から生まれる差別も少なくありません
人はわからないものを怖がります
そして怖さは距離を生み、
その距離を想像で埋めようとします
その想像は誤解を生み、
誤解は偏見へと変わります
差別は突然生まれるのではなく、小さな「わからなさ」の積み重ねから生まれることがあります
支援の現場で見えること
子どもたちと関わっていると、
「みんなと同じようにできるようになること」
だけが目標ではないと感じます
もちろん、できることが増えるのは大切です
選択肢、その先の可能性も広がります
でも、それ以上に大切なのは、
「違いがあっても参加できること」
ではないでしょうか
支援は、「普通」に近づけることではなく、
その子自身が、自分らしく社会に参加できる方法を一緒に探していく営みだと思っています
違いは、なくならない
むしろ、人が人である限り、
違いは当たり前に存在し続ける
だから私たちには、
同じになることではなく、
違うまま共に生きる力が必要なのかもしれません
支援もまた、
その力を育てる営みの一つなのだと思います
社会には様々な人がいます
得意な人
苦手な人
話すのが上手な人
助けを求めるのが苦手な人
誰もが何かしらの凸凹を持っています
それにもかかわらず、「普通」に近い人だけが生きやすい社会になってしまうと、多くの人が苦しむことになります
差別をなくすことはできるのか
正直に言えば、差別を完全になくすことは難しいのかもしれません
人が集団を作る以上、
「自分たち」と
「そうではない人」
という区別は自然に生まれます
大切なのは、
差別をしない完璧な人になることではなく、
「自分も差別してしまう可能性がある」
「誰もが、自分では気づかない偏り(アンコンシャス・バイアス)を持っている」
そのことを忘れず、自分の見方を問い続けることなのだと思います
自分の中の "普通" を疑うこと
知らないものを知ろうとすること
決めつける前に話を聞くこと
その積み重ねが、少しずつ社会を変えていくのだと思います
まとめ
差別は、遠い場所の問題ではありません
私たち一人ひとりの中にある、小さな「当たり前」から始まります
その「当たり前」は、
いつ、どこで、誰から受け取ったものなのでしょうか
だからこそ、
「なぜ自分はそう思ったのだろう」
と問い続けることが大切なのかもしれません
違いをなくすことはできません
むしろ、違いをなくそうとすることは、
誰かに「同じであること」を求めてしまうことなのかもしれません
違いがあっても、一緒に生きていける社会はつくれるはずです
理解できないことがあってもいい
それでも、「知ろう」とすることはできます
私たちは、誰かを「違う」と感じたとき、
本当に見ているのは、相手なのでしょうか
それとも、自分の中にある "当たり前" なのでしょうか
その問いの先には、「人を一言で決めつけてしまうこと」について、もう一度考えるテーマが待っています
次回予告
「あの子って、こういう子だよね」
私たちは人を理解しようとするとき、
つい一言で言い表そうとします
でも、その言葉は本当にその人を表しているのでしょうか
その言葉に、悪気はないのかもしれません
でも、その一言が、
その人の可能性を狭めてしまうことがあります
人は、一度抱いた印象に引っ張られてしまうものです
次回の逆転スペクトルは、
「レッテル ―― その人らしさは、一言で説明できるのか」
について考えてみたいと思います