逆転スペクトル Chapter6 男女|性・ジェンダー・スポーツを考える

INTRODUCTION

「男らしさ」
「女らしさ」

私たちは、いつからそんな言葉を意識するようになるのでしょうか

幼い頃は、ただ「好き」や「やってみたい」という気持ちだったものが、成長するにつれて、

 「男なのに」
 「女なんだから」

という "社会の視線" と出会っていきます

  先日、先出し公開したブログ記事、
  「子どもの可能性を広げるために——性別だけで決めつけない関わりを考える」では、
  幼児期の子どもたちに対して、性別だけで可能性を決めつけないことについて考えました

今回は、その続きでもあります


スポーツを見ていると、時々不思議な場面があります

 女の子に負けた男の子が、悔しそうに言い訳をする

でも、それは本当に「負けたことが」悔しかったのでしょうか

それとも、

 「女の子に、負けたこと」

が悔しかったのでしょうか

スポーツを男女で分けることは、差別なのでしょうか
それとも、公平のために必要なのでしょうか

私たちは「平等」や「公平」という言葉を使います

でも、その違いを本当に説明できるでしょうか

今回は、性別やスポーツを通して、
平等・公平・共生について考えてみたいと思います

そしてその先にある、

私たち自身の「こうあるべき」についても。

自分を理解するということは、

自分の中にある "当たり前" に気づいていくことでもあるのだと思います


逆転スペクトル Chapter6
男女——性、ジェンダー、スポーツを考える


ブルバ:
この前、子どもたちがかけっこしてたんですけど

代表:
うん

ブルバ:
女の子が、男の子に勝ったんですよ

代表:
うん

ブルバ:
それ自体は、いいんですけど

代表:
うん

ブルバ:
まわりの子が、
「女の子に負けたー!」
みたいに言ってて

代表:
ああ

ブルバ:
負けた男の子も、ただ負けて悔しいというより、
なんか、すごく言い訳したそうだったんです

代表:
言い訳?

ブルバ:
はい
「本気じゃなかったし」
「ちょっと、足すべったし」
みたいな

代表:
なるほど

ブルバ:
もちろん、負けたから悔しいのは分かるんです

代表:
うん

ブルバ:
でも、ただ負けた悔しさとは、ちょっと違う気がして

代表:
どんなふうに?

ブルバ:
なんて言えばいいんだろう……

「女子に負けた」ってなると、
なんか急に、
「かっこわるい」
「ださい」
「恥ずかしい」
みたいな空気になる気がするんです

代表:
うん

ブルバ:
男の子に負けても悔しいし、
女の子に負けても悔しいはずなのに

代表:
そうだね。

ブルバ:
でも、
「女の子に負けた」
ってなると、ただの負けじゃなくなる感じがするんです

代表:
大事なところに気づいたね

ブルバ:
ただ勝負に負けただけなのに

なんか、

「かっこわるい」

みたいな空気がある気がするんです

代表:
なるほど

ブルバ:
ただ負けただけなのに。

代表:
そうだね

ブルバ:
なんでなんでしょう

代表:
もしかしたら、

勝ち負け以外の何かが、

そこに含まれているのかもしれないね

ブルバ:
勝ち負け以外?

代表:
うん

男の子はこうあるべき。
女の子はこうあるべき。

そんな見えない基準


女子に負けた男子は、なぜ言い訳をしたくなるのか

女子に負けた男子が、言い訳をすることがあります

 「本気じゃなかったし」
 「ちょっと足が痛かった」
 「たまたまだよ」
 「もう一回やったら勝てるし」

もちろん、負けて悔しいから言い訳をすることもあります

それは自然なことです

 一生懸命やった
 勝ちたかった
 でも負けた

 悔しい。

その気持ち自体は、否定するものではありません

でも、そこに
「女子に負けた」
となった瞬間、勝ち負け以外の何かが入り込んでくることがあります

なぜ、男子は女子に負けると、言い訳をしたくなるのでしょうか

誰かに教わったわけではない

でも、
「男子は女子に負けてはいけない」

そんな空気を、私たちはどこかで受け取っているのかもしれません

誰が決めたのかは分かりません

いつからそうなったのかも分かりません

でも、子どもたちの世界にも、大人の世界にも、
その空気は確かにあります

そんな言葉にならない基準が、いつの間にか心や頭の中に入ってくる

すると、女子に負けた男子は、ただ勝負に負けただけではなく、
「男らしさ」まで失ったように感じてしまうことがあります

事実は、ただその場の勝負に負けただけです

その日、その競技で、相手の方が速かった

それだけのことかもしれません

でも、そこに
「男なのに」
という言葉がついてしまうと、

ただ勝負に負けただけではなく、
自分まで否定されたような気持ちになってしまうことがあります

だから、言い訳をする

それは、負けを認めたくないというより、
自分の中の「男らしさ」を守ろうとしているのかもしれません

そしてこれは、男子にとって苦しいことです

でも同時に、女子にとっても苦しいことです

なぜなら、男子が自分の男らしさを守ろうとするとき、
女子の勝ちを軽く扱ってしまうことがあるからです

そうやって、女子の努力や実力が、正当に評価されにくくなる

 女子が勝っても、勝ったことにならない
 男子が負けても、負けたことを受け止められない

すると、どちらも苦しくなります

男子は「強くあるべき」

女子は「強くなくてもいい」

そんな見えない基準が、
知らないうちに子どもたちの中へ入り込んでいくのです

そんな基準を、子どもたちに覚えさせてしまっていいのでしょうか

男の子にも、女の子にも、誰にとっても、
「こうでなければならない」という見えない基準を背負わせたいわけではない

私たちは、誰も本気でそんなことを望んでいないはずです

それなのに、何気ない言葉や反応の中で、
その基準を子どもたちに渡してしまっていることがあります

「男の子なのに」
「女の子なのに」

それは、軽く見えて、
子どもの心に深く残ることがあります




違いは、どこから生まれるのか

男の子が運動できると褒められる
女の子が運動できると「意外」と言われる

最初から能力に差があったのではなく、
期待される機会
励まされる機会
挑戦する機会 に差があった

その結果として、実際に「こうでなければならない」という見えない基準が広がっていく

そういうこともあるのだと思います

 どんな経験をしてきたのか
 どんな期待を受けてきたのか
 どんな挑戦をしてきたのか
 どんな言葉をかけられてきたのか

という背景が含まれているかもしれません

だからこそ、私たちは慎重でありたいと思うのです

男の子の中にも、運動が苦手な子がいます
女の子の中にも、走ることが大好きな子がいます

性別は、その子を理解するための一つの情報にはなるかもしれませんが、
性別だけで子どもの可能性を決めつけてしまうと、
その子が出会えたかもしれない挑戦する機会や
評価される機会、
経験を狭めてしまうことがあります


分けることは、差別なのか

ここで一つの疑問が生まれます

分けることは、差別なのでしょうか

スポーツには、
 男女別があります
 年齢別があります
 体重別があります

パラスポーツには、
 障害区分があります

それは、誰かを排除するためではありません

できるだけ公平に競い合うためです

つまり、

「分けること」

そのものが問題なのではありません

何のために分けるのか
何を守ろうとしているのか

そこが大切なのだと思います

いうまでもなく、平等は大切です

 誰もが挑戦できること
 誰もが参加できること
 誰もが尊重されること

ただ、「全員同じ」としてしまうと、
別の形で不公平が生まれることもあります

公平とは、ただ同じにすることではなく、

 参加する機会を守りたいのか
 競争の条件を守りたいのか
 安全性を守りたいのか
 その人の尊厳を守りたいのか

どれも大切です。

でも、時にはそれらがぶつかることもあります

だからこそ、スポーツはこの問題を考えるうえで分かりやすいのです

だけど、答えは簡単ではありません

けれど少なくとも、

「同じにすること」だけが平等ではないことはわかります

その分け方が、本当に妥当なのか
そして、その分け方によって、誰かの尊厳や可能性を不当に傷つけていないか

そうした状態は、決して望ましいものではありません

 誰かだけが最初から排除されていないか
 誰かだけが挑戦する前から諦めさせられていないか

そこを考えること

そこが、とても大切なのだと思います


共に生きるために

 平等。
 公平。

どちらも大切です

でも、本当に目指したいものは、その先にあるのかもしれません

私たちは、一人ひとり違う人間です

だから、
個人の感じ方や尊厳は大切にされなければなりません

でも同時に、

私たちは集団の中でも生きています

「個人の権利」「共同体の権利」

どちらか一方だけでは、社会は成り立ちません

だからこそ、

平等か。公平か。

という二択ではなく、

違いを認めながら、どう共に生きるのか。

その問いを考え続けること

それが「共生」なのかもしれません

違いをなくすことではない
みんなを同じにすることでもない
違いがあることを認めながら、
どうすれば一緒に生きていけるのかを考えること

スポーツの世界でも、
社会の中でも、

本当に難しいのはここです

今年(2026年)9月には、愛知・名古屋でアジア競技大会が開催されます
そして、その後にはアジアパラ競技大会も開催されます

そこには、

国籍の違う人たち
文化の違う人たち
身体の違う人たち

さまざまな人たちが集まります

違いをなくすのではなく、
違いを抱えたまま共に参加する

その姿は、私たちに多くのことを教えてくれるのかもしれません


性別やジェンダーは、どこまで自分で選べるのか

性別やジェンダーについて考えるとき、
もう一つ難しい問いがあります

それは、
どこまでが「個人の選択」で、
どこからが「与えられたもの」なのか、
という問いです

 生まれ持った身体
 育った環境
 まわりからの期待
 自分がどう感じるか
 自分をどう理解するか
 社会からどう見られるか

それらは、簡単に切り分けられるものではありません

「自分で選んだ」と言える部分もあるかもしれません

でも、自分で選んだわけではないものも、確かにあります

そして、私たちはその両方を抱えながら生きています

だからこそ、性別やジェンダーの話は難しいのだと思います

個人の感じ方や尊厳は大切です

誰かが自分自身をどう理解するかは、軽く扱われてよいものではありません

一方で、スポーツや社会のように公平性や安全性が求められる場面では、
個人の尊重だけでは整理しきれない問題もあります

集団としてのルール
個人と集団のどちらをどう守るのか

その問いを、丁寧に考え続ける必要があるのだと思います


スポーツの話をしているようで

ここまで、スポーツを通して男女や公平性について考えてきました

スポーツは、分かりやすい入口で
スポーツの話をしたかったわけではありません

勝ち負けがある
身体差が見えやすい
男女分離の理由もある
男女平等の重要性も見えやすい

だから、スポーツを通して考えると、
私たちの中にある見えない基準が見えやすくなります

私たちが考えたかったのは、

「こうあるべき」という見えない基準についてです

こうした考え方は、時に私たちを支えてくれます
でも時に、私たちを苦しめることもあります

そして、その苦しさは子どもたちの世界にも現れます

正しいことを言うべき・すべきの、正義感。
みんなと同じ・迷惑をかけない、協調性。
ひとりで最後まで、頑張りすぎ。

今後、考えていくテーマも、実は同じ問いにつながっています

私たちは、

どれだけの「こうあるべき」を抱えて生きているのでしょうか

そして、

その「こうあるべき」は、
本当に自分で選んだものなのでしょうか

だから、第二部『自分を理解する』のはじまりに、
私たちはまず「男女」というテーマを通して、
自分の中にある当たり前を見つめてみたいと思ったのです


まとめと次回予告

スポーツを通して、
 男女の違い
 平等
 公平
 共生

について考えてきました

子どもたちには、
「男だから」
「女だから」
という基準だけで、自分を決めてほしくありません

同じように、

私たち大人もまた、
知らないうちに抱えている「こうあるべき」に気づいていく必要があるのかもしれません

自分を理解するということは、
自分の性格や得意なことを知ることだけではありません
自分の中にある思い込みや、
当たり前だと思っていることに気づいていくことでもあります

それは時に、
自分自身が気づかないまま持っている偏見や先入観に向き合うことでもあります

そして、その先にあるのが、次回のテーマです
連載『逆転スペクトル』Chapter7は、
「差別|「違う」は、なぜ怖くなるのか」
(アンコンシャス・バイアス/無意識の偏見を考える)

差別は、特別な誰かの問題ではありません

むしろ、

誰の中にでもある「思い込み」から始まるのかもしれません

「こうあるべき」そうしたものは、いつの間にか私たちの中に入り込んでいます

そして時に、
相手や自分自身を縛る基準になってしまうことがあります

私たちが気づかないまま抱えている「当たり前」は、

どのように人との関係を作り、
時に誰かを傷つけてしまうのでしょうか

「違い」と「決めつけ」の境界について、

もう少し考えてみたいと思います