逆転スペクトル Chapter5|言葉——「言ってはいけない言葉」はなぜ存在するのか?

【INTRODUCTION】

ここまで私たちは、「正しさ」とは何かをめぐって考えてきました

はじまりは、「権利」でした。
「わがままを言うこと」は、本当に認められるべきなのか
子どもが何かを主張するとき、それはどこまで許されるのか

続いて、「復讐」
「やられたらやり返す」という感情は、公平なのか
それとも、終わらない連鎖のはじまりに過ぎないのか

そして、「罰」
親が子どもに与える「おしおき」は、本当に正当化できるのか

さらに、「権威」
そもそも、なぜ親は子どもに命令できるのか
その前提は、どこから来ているのか

こうして振り返ると、私たちが "当たり前" で "正しい" と思っていた道徳の多くは、
簡単に答えの出ない曖昧さがありました
そしてそれは、状況や立場によって簡単に揺らいでしまうものだと気づきます

そして、その曖昧さが、もっとも身近な形で現れるものがあります

それが、「言葉」です

 「そんな言葉を使ってはいけません」
 「汚い言葉はダメです」

大人はそう言いながら、
なぜダメなのかを、十分に説明できているでしょうか

——言ってはいけない言葉は、本当に "言ってはいけない" のでしょうか

不思議なことに
同じような意味でも、許される言葉と、許されない言葉がある
同じ気持ちでも、表現の仕方によって、叱られることがある

では——

 いったい何が、「いけない」のでしょうか

言葉そのものなのか
それとも、別の何かなのでしょうか

言葉は単なる "伝達の道具" なのか
それとも、人に影響を与える「行為」なのか

第一部『道徳を理解する』の締めくくりとして、
この問いに向き合っていきます


Chapter 5|言葉

──「言ってはいけない言葉」はなぜ存在するのか?



■ 汚い言葉って、そんなに悪いの?

ブルバ:
ねえ代表、「バカ」とか「うざい」とかって、やっぱりダメな言葉なの?

代表:
うん、多くの大人は反射的にそれを止めるよね
でも、その「ダメ」って、何がダメなんだろう

ブルバ:
えっと……悪い言葉だから?

代表:
じゃあ、「嫌い」と「うざい」はどう違う?

ブルバ:
どっちも、あんまり好きじゃないってことだよね

代表:
そう。どちらも、相手への拒否や不快感を表現する言葉だよね
にもかかわらず、一方は許容され、もう一方は強く否定される


■ 言葉は「意味」より「ラベル」で判断される

代表:
私たちは、「何を言っているか」よりも、
「どの言葉を使ったか」で反応してしまうことが多い

ブルバ:
たしかに、「うざい」は怒られるけど、「嫌い」はそんなに怒られないかも

代表:
それは、「意味」の問題ではなく、
「社会の中で、そういう扱いをされている言葉」の問題なんだよね


■ じゃあ、全部自由に言っていいの?

ブルバ:
じゃあさ、意味が同じなら、どんな言葉でも使っていいの?

代表:
そんなに単純でもない
言葉は、「意味」だけじゃなくて、
その言葉が使われてきた「歴史」や、
場面や関係性といった「文脈」も背負っているからね

ブルバ:
歴史?

代表:
さらに言えば、
言葉は「言った側の意図」だけで完結しない
たとえば、誰かを「傷つけるために」「長く」使われてきた言葉は、
それ自体が強い力を持ってしまう


■ 悪態をつくのは悪いこと?

ブルバ:
でもさ、イライラしたときに「うざい!」って言いたくなるよ

代表:
それは、とても自然なことだと思うよ
むしろ、まだうまく整理できない感情を外に出すための手段でもある

ブルバ:
じゃあ、止めなくていいの?

代表:
大事なのは、「言ったこと」そのものより、
その言葉が「誰に」「どのように」向けられたのか


■ 悪態は、必要なスキルでもある

強い言葉を使うことが、
すべて否定されるべきかというと、そうとも言い切れません

子どもにとってそれは、
自分の不快さや怒りを外に出すために必要なスキルでもあります

例えば、「うんち」や「おしっこ」といった言葉や、
「ばか」「あほ」といった表現に夢中になる時期があります

それは、単なるおふざけではなく、

 自分の身体への興味や達成感、
 大人の反応を引き出す面白さ、
 言葉そのものの楽しさ、
 そして自分を強く見せようとする試みなど、

さまざまな要素が重なっています

つまり、言葉は、
自分と他者のあいだで関係を試すための手段でもあり、
子どもにとっての「遊び」であり、
同時に「表現」でもあるのです

もしそれをすべて封じてしまうと、
子どもは感情を内側に溜め込むか、
あるいは別の形(行動や身体)で表現するしかなくなります

そしてこれは、子どもだけの話ではありません

最近では、「ウザい」「ヤバい」「ダルい」といった言葉や、
オンライン上での「www」「草」といった表現も、日常的に使われています

これらは、短い言葉で感情を共有できる便利さがあります
一方で、その言葉だけで済ませてしまうと、

本来そこにあったはずの、
細かな気持ちやニュアンスが、
言葉として外に出てこなくなることもあります

 「悔しい」のか、「恥ずかしい」のか、
 「悲しい」のか、「腹が立っている」のか

本当は違うはずの感情が、
一つの言葉にまとめられてしまうことで、
自分自身でも、その違いを捉えにくくなることがあります

言葉は、誰かに伝えるためのものでもありますが、
同時に、自分の気持ちを理解するためのものでもあります

そして、その気持ちを言葉にする機会があるかどうかで、
自分の理解の仕方も少しずつ変わっていくのかもしれません


■ 「使用する」と「言及する」は違う

言葉について考えるとき、
もう一つ重要な視点があります

それは、「その言葉を使うこと」と、
「その言葉について話すこと」は違うということです

例えば、支援の現場では、
「"死ね"って言われたら、どんな気持ちになる?」と話すことがあります

このとき私たちは、その言葉を "使っている" のではなく、
"言及している" のです
この区別が曖昧なまま、
言葉そのものを避ける傾向があります

子どもが使った言葉を、ただ止めるだけでは、
結果として、子どもたちは
「なぜそれがいけないのか」を学ぶ機会を失ってしまう

だからこそ私たちは、
言葉を避けるのではなく、
言葉について "言及する" 必要があります


■ 線を引くべき言葉はある

代表:
ただし、明確に線を引くべき言葉もある

ブルバ:
どんな言葉?

代表:
特定の人たちの属性を否定したり、傷つけたりする言葉。
いわゆる差別にあたるものです

ブルバ:
それは、ダメってはっきり言えるんだね

代表:
うん。そこでは、言葉は単なる表現じゃなくて、
相手の尊厳を傷つける「行為」になるから


■ 善意でも傷つけることがある

ブルバ:
でもさ、悪気がなくても言っちゃうことってあるよね

代表:
あるね。むしろ、そのほうが多いかもしれないね
どれほど善意であっても、
相手を傷つけることは起こり得る

ブルバ:
それでもダメなの?

代表:
ここに、言葉の難しさがある

「ダメ」と切り捨てるより、
「どう受け取られたか」、
「その言葉が引き起こす影響」を一緒に考えること
が大事だと思う

そしてその影響は、対面でのやり取りだけに限りません
支援記録やブログといった文章においても、同じことが言えます

私たちはつい、「何を書いたか」に意識を向けがちですが、
 実際には、「どう受け取られるか」によって、その意味は大きく変わります


■ 言葉は「行為」である

ブルバ:
なんか、言葉って難しいね

代表:
そうだね

人を励ますこともできるし、
人を支え、勇気づけることもある、
でも、
深く傷つけることもある

だからこそ私たちは、
言葉の力を過小評価してはいけないし、
同時に、
言葉を恐れすぎてはいけない

大切なのは、
その力を理解し、引き受けること

言葉は、誰かに何かをする「行為」です
だからこそ、そこには責任が伴います

ただし——
その責任とは、「間違えないこと」ではありません

むしろ、
自分の言葉がどのように届くのかを考え続けること
そして、その影響を引き受けようとすること

それこそが、
言葉と向き合うということなのだと思います


ここまで見てきたように、
言葉は、単なる伝達の手段ではありません

 「すべてを許す」こともできない
 「すべてを禁止する」こともできない

そのあいだで、問い続ける

それが、ここまで私たちが考えてきた
「正しさ」と向き合うということなのかもしれません

そしてその問いは、まだ終わっていません


【次回予告】

ブルバ:
ねえ代表、この連載で「正しさ」について考えてきたよね

代表:
そうだね

ブルバ:
でもさ、今回の「言葉」の話聞いてたら、
なんか "正しさ" って、決まらない気がしてきた

代表:
そう感じたんだね

ブルバ:
じゃあさ、そもそも——
「正しい」とか「間違ってる」とか考えてる "自分" って、何なの?

代表:
いいところに気づいたね
その「自分」もまた、決して単純なものではない

ブルバ:
え、なにそれ、どういうこと?

代表:
次回からの、第二部ではそんな話をしようか

Chapter6は、
「男女 — 性、ジェンダー、スポーツを考える」

性別とは何か。
それは本当に、はっきり分けられるものなのか

そして、その違いは、
どのように扱われるべきなのか

「社会の中の自分」という視点から、
新たな問いへと進んでいきます